昭和48年5月13日 特別奉修委員
                                  中村良一


えー、地球儀の、あの、お供えをされたのは、久留米の佐田さんですけれども、あれを注文されて、出来たと言うて通知のあったのが九日の日だったそうです。そしたら、カーネーションとバラとが生けてあるのがね。あん、おどうじがついて、こんなに揺れたという事ですね。もう、今日のご理解じゃないけれども、神様がもう、揺さぶろうとして、もう一生懸命、あの、私共の心を揺さぶっておられるのですね。如何にあの、なら、地球を救えというかね。そういうような事を、そういう事柄で、まあ、神様に口が無いからね。そういう事を持って、私共にこう、言うならば、すがろうとしておられる。頼ろうとしておられる、ね。それにだから、受けて応えるという事ですよ、信心というのはね。えー、もう、とにかく、もう、先ほど、久富さんも言うておられたがもう、久富さんの場合なんかは、様々な難儀がもう、次から、もう本当に、普通でいうなら、泣き面に蜂といったような難儀ななかにあって、もう、うちの神様の前の勢いというか、おいさみがもう、あり通しだそうですね、おいさみが。なら、佐田さんとこあたりでも、もう、いつもおいさみが、あり通しにあっておられるけれども、もう、神様がおいさみぐらいじゃもう、動じないもんだから、神様がね、そういうその、もうとにかく、どげん考えたっちゃ不思議です。こりゃ、昔、あの三橋先生のところで、いつもあの、お祭りの時に、あれがあっておりましたですね。お花におどうじがつかれる。今度はこの花、次のがこうやって動き出すといったようなね。そういうまあ、その、不思議な働きを見せてでも、神様が、私共の心を、あの、こう揺さぶって下さる、ね。だから、私共もまた、神様の心を揺さぶるほどしの物というのが、まあ、今朝のご理解だったんですけれども、本当におかげを頂いて有難い。そのおかげもです、例えば、普通ではおかげと思われない事にまで、おかげと気付かせて貰うてね、お礼を申し上げれるというような時、神様の心を、いやが上にも、こう揺さぶるように、例えば、赤であっても、赤がこう、向きを変えてしまうくらいなね、働きというものがあるんだと思うのです。ここで私は、一つ思わなければならないことは、例えば、有難いこともです。こう、慣れっこになったら駄目だという事ですね。それは、おそらく、あの、実際はそうじゃないと思うですけれども、なら、佐田さんが、おいさみなんか、頂きすぎいただいておって、もう、慣れっこになっておる。そりゃ、そうじゃない。もう本当に、ちょっとおばあちゃん、見てごらんなさい、あのおいさみ、本当もう、どうした、怖いごと神様のご守護を受けとることが分かるじゃないですかというような、雰囲気が、いつも生まれておるに違いがないと思いますけれども、神様が、それでも足らんというようにしてです。お花には、どうじを下さったというような事なんかがね。これはほんなら、有難いという事にも、慣れっこになったらいけませんし、同時に、今度は、反対にね、なら、苦しいこと。例えば、ほんなら、久富さんとこあたりに、泣き面に蜂といったようなことがね、ほんなら、何というですか、もう、苦しいことが当たり前のようになってね、これが、麻痺してしまったら駄目です。有難いのでも、苦しいのでも、どちらにでも、有難いなら、有難いという表現が、その次になされなければ駄目。なら、苦しいなら、苦しい、もう、本当に神様、もう、このようにして、例えば痛い思いをする時、苦しい思いをする時、もう、本当にあの、氏子の苦しみは、神の苦しみと仰るのだから、私共が、ね。おかげ、よう頂ききらん、こういう苦しみをです。神様にも、一段、させておるだろうと思うたら、その事が悲しい。その事が相すまんというような事になってこなければいけないですね。ただ、もう、苦しいとがもう、あんまり苦しいことが続くとですね。もう、諦めというか、麻痺してしまう、苦しみが。これは、怖いことだと思うですね。これは、有難いという。もう、ちょいと有難いこっじゃあるのばっかり言うちから、それを行動に現され無いごと、有難いとじゃつまらないという事、ね。そういう、例えば、あの、有難いという思いが表現されるときに、または、苦しいという、その思いがです、ね。あの、このようにして神様が分からして下さろうとしておる働きをね。やはり、答えは、有難いという答えになってこなければ、私は、ただ、信心がね、あの麻痺してしまうというかね。んー、例えば、信心は、あー、その、アヘンだというような事をね、えー、その、言う人達があるというごたる事がありますけれども、それも、だから、あながち、いー、その、そんなことはないとは言えないと思うんですよね。そういう風になってしもうたら、やはり、本当のことじゃない。麻痺を恐れます。どうぞ。